この土地に根差して生きる者として、どうしても伝えておきたい「新潟」の話があります。
私は村井遼太郎。
生まれも育ちも新潟、佐渡島に居を構え、長く地元紙の記者として新潟の風土と人々の暮らしを見つめてきました。
私の筆が捉えようとしているのは、観光ガイドには載らない、この土地の「匂い」や「温度」です。
新潟の厳しくも豊かな四季。
土と水に育まれた営み。
人々の言葉の端々に宿る、過ぎ去った時間の記憶。
それはまるで、柳田國男が『遠野物語』で拾い上げたような、名もなき人々の息遣いの記録なのかもしれません。
この記事では、私が記者として、そして一人の人間として、新潟という土地と向き合い続ける中で見えてきた「本当に伝えるべきこと」をお話ししたいと思います。
民俗誌をひもとくように、ゆっくりと読み進めていただけたら幸いです。
新潟という「風土」の記録者
新潟という土地は、ただ広いだけではありません。
日本海に面した海岸線。
広大な越後平野。
そして、そびえ立つ山々。
それぞれの景色の裏側には、特有の気候と歴史が織りなす、唯一無二の「風土」が存在します。
私が記者として最初にしたことは、とにかくその風土の中を歩くことでした。
土と水が織りなす新潟の四季
新潟の春夏秋冬は、非常に表情豊かです。
春には雪解け水が大地を潤し、苗代に水が張られる光景は、新しい命の息吹を感じさせます。
夏になれば、田んぼの稲が青々と茂り、その緑の絨毯の上を熱い風が吹き抜けていきます。
秋は黄金色の稲穂が頭を垂れ、収穫の喜びに沸きますが、同時に冬への備えも始まります。
そして冬。鉛色の空の下、雪がすべてを覆い尽くす静寂の季節です。
こうした季節の移り変わりは、単なる気候の変化ではなく、そこで暮らす人々の生活リズムそのものと深く結びついています。
- 春:雪下野菜の収穫、苗代準備
- 夏:田植え、草刈り
- 秋:稲刈り、新米の喜び
- 冬:雪囲い、冬仕事、春を待つ静かな時間
このサイクルこそが、新潟の農業を支え、食文化を育んできたのです。
佐渡という“孤島”が教えてくれるもの
私が暮らす佐渡島は、新潟本土とはまた異なる独自の文化を持っています。
海に隔てられた「孤島」であること。
かつて流刑地であった歴史。
これらの要素が、佐渡特有の祭りや芸能、そして人々の内向的でありながらも芯の強い気質を育んできました。
佐渡の暮らしは、自然の厳しさと隣り合わせです。
海の恵みを得る漁師町。
棚田が広がる山間部。
それぞれが独自の共同体を築き、助け合いながら生きています。
本土から隔絶されているからこそ、古き良き習俗や言葉が色濃く残っているのかもしれません。
それは、私たちに「本当に大切なもの」は何なのかを問いかけてくるようです。
方言・食・暮らしの細部に宿る記憶
土地の記憶は、大げさな歴史書だけにあるわけではありません。
日々の暮らしの細部にこそ、その土地の真髄が宿っています。
例えば、新潟には地域ごとに様々な方言があります。
語尾の抑揚や独特の言い回しには、その土地の人々の気質や歴史が反映されています。
また、食文化も然りです。
米どころ新潟ならではの豊富な米料理はもちろん、地域特有の野菜や魚、保存食など、一つ一つに先人の知恵と工夫が詰まっています。
例えば、私の好きな郷土料理に以下のようなものがあります。
- のっぺ: 里芋や人参、鶏肉などを煮込んだ新潟の代表的な家庭料理。地域や家庭によって具材や味付けが異なる。
- へぎそば: つなぎに布海苔を使ったそば。独特のつるつるとした食感とのど越しが特徴で、「へぎ」と呼ばれる器に盛り付けられる。
- 笹団子: もち米で作った餡入りの団子を笹の葉で包んで蒸したもの。笹の香りが特徴で、新潟土産の定番。
こうした何気ない日常の風景や習慣こそが、その土地のアイデンティティを形作っているのです。
私は、そうした細部を丁寧に拾い上げ、記録することを大切にしています。
それは、失われつつある記憶を呼び覚ます作業でもあるからです。
忘れられゆくものへのまなざし
記者として多くの現場を見てきましたが、中でも私の心に深く刻まれているのは、震災の取材経験です。
自然の猛威の前で、人々の日常がいとも簡単に崩れ去る光景を目の当たりにしました。
そして、時間が経つにつれて、その時の記憶や教訓が風化していくことの恐ろしさも知りました。
震災取材が変えた「記者」の使命
記者という仕事は、速報性が重視されます。
しかし、震災の現場で私が感じたのは、それだけでは捉えきれない、もっと根源的な人間の強さや脆さ、そしてコミュニティの絆でした。
それは、数字や事実だけでは伝えられない、感情や記憶の層に属するものです。
この経験を通じて、私の「記者」としての使命感は変化しました。
単に出来事を報じるだけでなく、人々の暮らしのディテール、声にならない声、そして歴史の中に埋もれかけた記憶を掘り起こし、記録すること。
それが、私がこの筆で成すべきことだと考えるようになったのです。
消えゆく祭りと営みをどう綴るか
地方では、かつて盛んだった祭りや伝統的な営みが、後継者不足や過疎化によって静かに姿を消しつつあります。
地域のアイデンティティが失われる瞬間です。
私は、そうした消えゆくものに光を当てたいと考えています。
例えば、数十年ぶりに復活した小さな集落の祭りを取材した時のこと。
準備に奔走する高齢者たちの生き生きとした表情。
都会から帰省した若者たちがぎこちなくも手伝う姿。
子どもたちが真新しい法被に袖を通す時の輝き。
それは、単なるイベントの記録ではありません。
地域の人々が、自分たちのルーツを、そして未来への希望を再確認する瞬間なのです。
私は、その熱量やそこに込められた思いを、丁寧な筆致で掬い上げたいのです。
年寄りの言葉、子どもたちの沈黙
取材を通じて、様々な世代の人々と話をします。
古老たちの言葉には、その土地の歴史や知恵が凝縮されています。
彼らが語る昔話、方言で交わされる何気ない会話の中に、忘れられがちな暮らしの機微が隠されています。
一方、子どもたちは多くを語りません。
しかし、彼らが地域のお祭りや自然の中で見せる表情、無邪気な振る舞いの中に、失ってはいけない未来の断片を感じ取ることができます。
私は、年配者の豊富な経験に敬意を払い、子どもたちのまだ何色にも染まっていない可能性に希望を見出します。
世代を超えて、この土地の物語を繋いでいくことの重要性を、彼らとの触れ合いから日々学んでいます。
歩いて、酌み交わして、書く
私のリサーチ方法は、非常にアナログかもしれません。
「歩くこと」を信条としています。
机上のリサーチだけでは見えないものが、現場には必ずあるからです。
「歩くリサーチ」が引き出す言葉
目的地に着いたら、まず自分の足で歩き回ります。
田畑の様子、漁港の匂い、集落の家並み、道端の花。
五感をフルに使って、その場の空気を感じ取るのです。
地域の人に会えば、立ち話でも構いません。
「今日はいい天気だね」「この前の雨は大変だったね」
そんな他愛もない会話から、暮らしのヒントが見えてくることがあります。
歩くことで、その土地の「時間」や「リズム」が身体に染み込んでくるような気がします。
取材相手と囲炉裏を囲む時間
本格的な取材の際は、時間をかけて関係性を築くことを大切にしています。
一方的に質問攻めにするのではなく、まずは相手の話をじっくり聞く姿勢を持つこと。
そして、可能であれば、食卓や囲炉裏を囲んで、お酒を酌み交わしながら話すのが私のスタイルです。
食事を共にし、盃を交わすことで、お互いの緊張がほぐれ、本音で語り合える瞬間が生まれます。
囲炉裏の火を囲んで、パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながら話す時間は格別です。
炎を見つめながら、ぽつりぽつりと語られる言葉の中に、その人の人生や土地への思いが深く滲み出ていることがあります。
それは、単なる情報の収集ではなく、心と心が通い合う貴重な時間です。
情報ではなく“記憶”を集めるということ
私が集めたいのは、Google検索で簡単に見つかるような「情報」ではありません。
人々の心の中に眠る「記憶」です。
それは、個人的な体験であったり、家族から語り継がれた話であったり、あるいは地域共同体で共有される伝承であったりします。
記憶は曖昧で、時に事実と異なることもあるかもしれません。
しかし、その曖昧さの中にこそ、人々の感情や価値観、そしてその土地の集合無意識のようなものが隠されているのです。
私は、そうした記憶の断片を拾い集め、紡ぎ合わせることで、その土地のより深く、より豊かな姿を描き出したいと考えています。
それは、まるでパズルのピースを集めるような作業です。
- 聞く: 人々の話をじっくりと聞く。
- 歩く: 現場を歩き、五感で感じる。
- 調べる: 文献や資料で背景を確認する。
- 繋ぐ: 集めたピースを組み合わせて物語を紡ぐ。
このプロセスを通じて、単なる記事を超えた、生きた「民俗誌」のような文章を目指しています。
「地方」と「中央」の狭間で
地方で物書きとして生きる上で、常に意識せざるを得ないのが、「地方」と「中央」の関係性です。
地方には、中央では見過ごされがちな大切な価値や声がたくさんあります。
それをどう「中央」に届け、理解してもらうか。
これが、私にとっての大きな課題の一つです。
届かない声、届かせたい声
地方の現実は、中央のメディアで報じられるニュースだけでは捉えきれません。
過疎化、高齢化、産業の衰退といった問題は深刻ですが、同時に、地域には独自の解決策や、困難の中でも明るく生きる人々の姿があります。
しかし、そうした声は、中央の大きな情報渦の中ではかき消されがちです。
私は、地方の小さな声、時に悲鳴にも似た声、しかし希望の光を宿した声を、埋もれさせたくありません。
私の筆を通じて、一人でも多くの人に、地方のリアルな姿を知ってほしい。
そして、地方が抱える課題を、自分たちの問題として捉えてほしいと願っています。
メディアの変化と地方記者の挑戦
インターネットやSNSの普及により、情報の流通の仕方は劇的に変化しました。
誰もが情報を発信できるようになった一方で、情報の信頼性や深度が問われる時代です。
地方のメディアも、厳しい状況に置かれています。
かつてのように、地域住民の情報源としての地位が揺らぎつつあります。
しかし、だからこそ、地方に根差した記者や書き手の役割は重要になると感じています。
現場に足を運び、顔と顔を合わせて取材し、土地の文脈を理解した上で書くこと。
それは、AIには真似できない、人間ならではの仕事です。
以下は、地方記者が直面する課題と、それに対する挑戦の一例です。
課題 | 挑戦 |
---|---|
情報過多による埋没 | 独自視点と深い取材に基づく質の高い記事発信 |
収益構造の変化 | デジタル活用やコミュニティとの連携強化 |
担い手不足 | 若手育成と多様な人材の登用 |
読者の関心維持 | 身近な話題とグローバルな視点の融合 |
私は、この変化を単なる脅威と捉えるのではなく、地方の視点から新しいジャーナリズムを切り開くチャンスだと考えています。
変わるべきもの、変えてはならぬもの
新潟という土地と向き合う中で、常に頭の中にある問いかけです。
社会は変化し続けています。
人口構造、産業構造、人々の価値観。
変化に対応しなければ、地域は衰退してしまうでしょう。
新しい技術を取り入れ、外からの風を受け入れる必要もある。
それは「変わるべきもの」です。
こうした変化の中で、地方でも様々な新しい事業が生まれています。
例えば、新潟にあるハイエンドの事業について調べてみた記事も、この土地の新しい動きを知る手がかりとなるでしょう。
一方で、決して「変えてはならぬもの」もあります。
それは、この土地が育んできた歴史や文化、共同体の絆、自然との共生といった、その土地固有の価値観です。
それは、この土地が育んできた歴史や文化、共同体の絆、自然との共生といった、その土地固有の価値観です。
安易な効率化やグローバル化の波に乗って、こうした根源的なものを失ってしまっては、その土地は魂を抜かれてしまいます。
新潟は、この「変わるべきもの」と「変えてはならぬもの」が同居する、美しい矛盾を抱えた土地だと感じています。
その矛盾の中で、何を残し、何を変えていくべきなのか。
私は、その問いを自らに投げかけながら、この土地を書き続けていきたいと思っています。
まとめ
この記事では、地元記者として私が「本当に伝えるべき新潟」についてお話ししました。
それは、単なる名所や特産品の紹介ではなく、この土地の風土の中で育まれた人々の暮らしや記憶、そしてそこに潜む課題や希望です。
私の活動を通じて、読者の皆さんに問いかけたいことがあります。
「あなたの生まれ育った土地、あるいは今暮らしている土地には、何が残っていますか?」
「大切にしたい記憶や営みはありますか?」
もし、あなたが暮らす土地にも、静かに忘れ去られようとしているものがあるなら、それに目を向け、耳を澄ませてみてください。
そこにこそ、その土地の、そしてあなた自身の根源的な価値が隠されているかもしれません。
私はこれからも、新潟という土地に深く潜り込み、そこに生きる人々の声なき声に耳を傾け、その記憶を記録し続けます。
それは、決して派手な活動ではないかもしれません。
しかし、この土地の物語を、失われる前に書き留め、次代へと手渡していくことが、私の残された使命だと感じています。
この土地に宿る風土の匂いと人々の温もりを、私の文章から感じ取っていただければ幸いです。