変えるのは制度か、それとも言葉か?女性政治家たちの挑戦

傍聴席のざわめきが、一瞬だけ止んだ。
ある地方議会の委員会室で、たった一人の女性議員がマイクを握っていた。
彼女が提出した陳情書は、シングルマザー向けの就労支援拡充を求めるもの。
しかし、男性議員たちから飛んでくるのは、「個人の努力の問題だ」「前例がない」という見えない壁のような言葉ばかりだった。

その時、彼女は用意していた原稿から目を離し、傍聴席を見つめてこう言った。
「前例がないのは、私たちがこれまで政治の場で声を上げられなかったからです」。

この光景は、特別なものではない。
日本の政治の現場で、今も無数に繰り返されている現実の一コマだ。
私たちは、社会を変えるためには「制度」を変えなければならないと教わる。
法律、条例、予算。
それらが社会の骨格を作っていることは間違いない。

しかし、その制度を動かすのは一体何か。
変えるべきは、本当に制度だけなのだろうか。
それとも、制度を動かす私たちの「言葉」なのだろうか。

この記事は、ジャーナリストである私が追い続けてきた、女性政治家たちの現場での闘いの記録である。
彼女たちが、いかにして冷たい「制度」の壁に、「言葉」という熱を持った槌を打ち付け、現実を動かしてきたか。
その力学を解き明かすことで、政治が「遠い支配構造」ではなく、「自分が関わることのできる現場」へと変わる瞬間を目撃してほしい。
声は、届くだけでは意味がない。
響いて、変わってこそ政治になるのだから。

なぜ議席は増えないのか?―数字と「空気」が示す現在地

まず向き合わなければならないのは、不都合な現実だ。
日本の政治がいかに世界から取り残されているかを示す、いくつかの数字がある。

数字の壁:世界から取り残される日本の現状

世界経済フォーラムが発表する「ジェンダーギャップ指数2024」。
日本の総合順位は146カ国中118位という、先進国として到底受け入れがたい結果だった。
中でも深刻なのが政治分野で、その順位は118位。
衆議院における女性議員の割合は、わずか10%台。
これは世界の平均を大きく下回り、多くの国が当たり前に進めている「政治の男女同数」には、あまりにも遠い現在地だ。

数字は、客観的な事実を突きつける。
この国の意思決定の場は、極端に男性に偏っている。
これが、あらゆる議論の出発点となる。

制度の限界:クオータ制という“劇薬”を巡る攻防

この状況を打破する「劇薬」として、世界130カ国以上で導入されているのが「クオータ制」だ。
議席や候補者の一定割合を、女性に割り当てる制度である。
効果は明らかで、導入した多くの国で女性議員比率は飛躍的に向上した。

しかし、日本では「逆差別だ」「能力のない女性議員が増える」といった抵抗が根強く、導入には至っていない。
2018年に施行された「政治分野における男女共同参画推進法」も、政党に候補者数の男女均等を「努力義務」として課すに留まり、罰則のない理念法に過ぎないのが実情だ。

制度というハードルがいかに高いか。
そして、その手前で議論がいかに行く手を阻まれているかが見て取れる。

声を封殺する「空気の壁」

だが、数字や制度以上に厄介なのが、議会や社会に蔓延する「空気の壁」の存在だ。
私が取材してきた多くの女性議員は、異口同音にその存在を語る。

  • 政策議論の最中に、容姿を揶揄するような性的なヤジが飛ぶ。
  • SNSを開けば、「女のくせに」「母親失格」といった誹謗中傷が殺到する。
  • 支援者を名乗る男性から、執拗な食事の誘いやストーカーまがいの行為を受ける。

内閣府の調査によれば、地方議会の女性議員の実に6割近くが、何らかのハラスメント被害を経験しているという。
これは単なる「個人の問題」ではない。
女性を政治の舞台から引きずり下ろし、その声を封殺しようとする、構造的な圧力だ。
この息苦しい「空気」を変えない限り、どんな制度を作ったところで、真の意味で女性が政治に参加することはできないだろう。

現場からの報告:言葉は、こうして政治を動かした

絶望的な現状を前に、しかし、彼女たちは諦めなかった。
制度の壁や冷たい空気に屈するのではなく、自らの「言葉」を武器に、少しずつ、しかし確実に現実を動かしてきた。

事例1:「当事者」の言葉が条例を動かすまで

ある市議会で、性暴力被害者の支援を求める条例案が長らく塩漬けになっていた。
予算がない、専門家がいない。
男性議員たちは、できない理由を並べるばかり。

その流れを変えたのは、自らも被害経験を持つ一人の女性議員の言葉だった。
彼女は議場で、誰かを糾弾するためではなく、ただ静かに、自分の体験と、相談窓口に駆け込んできた他の被害者たちの声を語り始めた。
それは、データや理屈では決して伝わらない、「当事者」のナマの言葉だった。

その言葉は、議会の空気を震わせた。
これまで対岸の火事のように捉えていた男性議員たちが、初めてその問題を「自分の地域の、一人の人間の痛み」として受け止めた瞬間だった。
その後、議論は急速に進展し、条例は全会一致で可決された。
言葉が、共感を生み、政治を動かした典型的な事例だ。

事例2:SNSが可視化した「名もなき声」のうねり

政治を動かす言葉は、必ずしも議場だけで生まれるわけではない。
職場で女性にのみハイヒールやパンプスの着用を義務付ける理不尽なルール。
多くの女性が内心で抱えていたこの違和感に、「#KuToo」という名前が与えられた時、それは社会的なムーブメントへと姿を変えた。

SNS上にあふれた「足が痛い」「なぜ女性だけ」という無数の「名もなき声」。
その声のうねりが、一人の女性議員を動かした。
彼女は集まった声を背に国会でこの問題を取り上げ、政府に見解を問いただした。
すぐさま制度が変わるには至らなかったが、この一連の動きは、それまで「マナー」や「個人的な我慢」の問題とされていたことを、紛れもない「政治の課題」として可視化させたのだ。

事例3:言葉の再定義 ―「ケア労働」を政治の中心へ

育児、介護、看護。
これまで「家庭内の問題」や「女性の愛情奉仕」として片付けられてきた労働がある。
「ケア労働」と呼ばれるこれらの営みを、「社会のインフラを根幹で支える、不可欠な労働である」と位置づけ直す。
この言葉の再定義こそ、新しい政策を生み出すための強力な武器となる。

コロナ禍で、エッセンシャルワーカーの重要性が叫ばれたが、その多くを担っていたのが女性だった。
「ケア労働なくして、社会は一日も回らない」。
この当たり前の事実を、政治家たちが繰り返し語り続けることで、ようやく保育士の待遇改善や介護離職ゼロに向けた政策が、政治の中心課題として議論されるようになってきた。
言葉が問題のフレームを変え、政策の優先順位を塗り替えたのである。

こうした言葉を武器にした闘いは、近年始まったものではありません。
例えば、アナウンサーとしての経験を活かし、その明確な語り口で国政の場に立った教育や文化政策の分野で発信を続けた畑恵氏のように、専門的な知見と言葉の力で粘り強く政策を訴え続けた先人たちの存在が、今日の議論の土台を築いてきた側面もあります。

参考: 畑恵(ハタケイ)|政治家情報|選挙ドットコム

「言葉」が「制度」に変わるメカニズム

現場の事例は、私たちにあるメカニズムの存在を教えてくれる。
それは、「言葉」という無形の力が、いかにして「制度」という有形の社会ルールへと結晶化していくかのプロセスだ。

第1段階:フレーミング ― 問題に“名前”を与える

すべての変化は、名もなき現象に「名前」を与えることから始まる。
かつて、「セクシャル・ハラスメント」という言葉は日本に存在しなかった。
職場での性的な嫌がらせは、「よくあること」「我慢すべきこと」として、個人の問題に矮小化されていた。

しかし、この言葉が輸入され、社会に定着したことで、初めてそれは「人権侵害」であり「社会で解決すべき構造問題」なのだという輪郭(フレーム)が与えられた。
言葉による「フレーミング」こそが、社会変革の第一歩となる。

第2段階:ナラティブ ― 共感と連帯の“波”を起こす

次に起こるのは、共感の「波」だ。

MeToo運動が示したように、一人の勇気ある告白、すなわち個人の「物語(ナラティブ)」が、同じ痛みを抱える無数の人々の心を動かす。

「私も同じ経験をした」「黙っていてはいけない」。
SNSなどを通じて共有されたナラティブは、孤独だった個人を繋ぎ、大きな連帯のうねりを生み出していく。

この段階では、理屈や正論よりも、人の心を揺さぶる物語の力が決定的な役割を果たす。

最終段階:法文化 ― 言葉を社会の“ルール”に刻む

そして最終段階で、その言葉と物語は、社会の恒久的な「ルール」へと刻まれる。
セクハラが社会問題として広く認識された結果、男女雇用機会均等法が改正され、企業に対策が義務付けられた。
社会の意識という「空気」の変化が、ついに「制度」という具体的な形に結実する瞬間だ。

このプロセスを見れば、「制度か、言葉か」という問いがいかに不毛であるかが分かる。
言葉が人々の意識を変え、その意識が制度を動かす。
両者は対立するものではなく、連動する車の両輪なのだ。

私たちは、傍観者でいることをやめられるか

ここまで、政治の現場で闘う女性たちの姿を追ってきた。
しかし、この物語の登場人物は、彼女たちだけではない。
この記事を読んでいる、あなたもだ。

あなたの違和感も“政治”である

「政治」と聞くと、多くの人が国会や選挙といった、遠い世界の出来事を思い浮かべるかもしれない。
だが、本来の政治はもっと身近なものだ。

あなたが職場で感じる理不尽。
地域社会で感じる息苦しさ。
子育てをしながら感じる孤独。

その一つひとつの違和感こそが、政治の出発点だ。
「これはおかしい」と感じるその気持ちに蓋をせず、言葉にしてみること。
それが、社会を変えるための最も小さく、しかし最も重要な一歩となる。

対話を恐れない ― 分断を越える言葉の架け橋

もちろん、声を上げればすぐに社会が変わるわけではない。
時には、激しい反発や批判にさらされることもあるだろう。
意見の違う相手と、どう向き合うか。
分断が叫ばれる今の時代にこそ、私たちは「対話」を諦めてはならない。

相手を打ち負かすための言葉ではなく、理解し合うための言葉。
異なる立場や背景を持つ人々との間に、辛抱強く「橋」を架けるような言葉。
それこそが、社会をより良い方向へと動かす力になるはずだ。

声を上げた人の未来が報われる社会へ

最も重要なのは、声を上げた人が、その勇気を後悔しない社会を作ることだ。
声を上げた結果、仕事を失ったり、コミュニティから孤立したり、心を病んだりすることがあってはならない。
むしろ、その勇気が「よくぞ言ってくれた」と称賛され、報われる社会。

そのために、私たち一人ひとりができることがある。
誰かが勇気を出して声を上げたら、その声に耳を傾けること。
「いいね」を押すこと。
友人や家族と、その問題について話してみること。
その小さな連帯の積み重ねが、声を上げた人を守り、次の声を上げる人を育む土壌となるのだ。

まとめ

この記事で明らかにしてきたことを、改めて振り返りたい。

  • 日本の政治は、ジェンダーギャップという点で世界から大きく遅れをとっており、その背景には制度的な壁と、女性の声を封殺する「空気」が存在する。
  • しかし、多くの女性政治家たちは、自らの「言葉」を武器に、当事者としてのナラティブを語り、問題に新たな名前を与えることで、現実の政治を動かしてきた。
  • 「言葉」が「制度」に変わるまでには、「フレーミング」「ナラティブ」「法制化」というメカニズムが存在し、両者は対立するものではなく、連動する両輪である。

変えるのは制度か、それとも言葉か。
答えは、どちらか一方ではない。
熱を持った言葉がなければ、冷たい制度の扉は開かない。
そして、開かれた扉の先にある新しい制度が、次の言葉を生む人々を守り、支える。

傍観者でいるのは、もう終わりにしよう。
あなたの心の奥にある、まだ言葉になっていない何かを、解き放つ時が来たのかもしれない。

声を上げた人の未来が報われる社会を、まだ諦めたくない。